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山口県山口市のデザインマンホール七夕提灯

ぶらりマンホール、山口県山口市の瑠璃光寺の前にて撮影。

 

山口県に在中の友人が撮影してくれたデザインマンホールです。

「やまぐちし 七夕ちょうちん」と記載されているのでその様子なのでしょうか?。

場所はどこかの商店街の通りで、竹にぶら下げた無数の提灯がスゴイです。

浴衣を着た3人の家族がそれを下から観賞しているようです。

飾られている提灯には、丸い穴?のような特徴が有るんでしょうか。

どこの商店街なんでしょうね。

七夕なのに、なぜ提灯を飾るのでしょうか?。

 

マンホールに掲載されている通り道

山口県山口市の「七夕ちょうちんまつり」の様子です。

毎年8月6日・7日に山口県山口市の中心商店街およびパークロード周辺で行われる七夕祭りです。 この時に紅ちょうちんのトンネルが出来てとても幻想的です。

長竿竹1本に約40個の紅ちょうちんを付けて飾ります、アーケード内でロウソクに火が灯されるのは全国的にも珍しいそうです。

この提灯には本当の火で灯りが灯されることから「火祭り」とも呼ばれています。

ロウソクは約2時間で燃え尽きるので、祭りの終わるころ、提灯の灯りが少しずつ消えていく様子は なんとも言えない寂しさを感じます。

「ちょうちん祭りの始まり」

歴史のある祭りです

室町時代の領主・大内氏の第26代 大内盛見(おおうち もりはる)が七夕の夜に、父大内弘世(おおうち ひろよ)を祀ろうと、笹竹の高灯籠に日をともしたのが始まりとなっています。いつしか灯籠がちょうちんに代わり、市民の盆行事として浸透したようですね。

 

ちょうちんのデザインが印象的

日の丸の逆バージョンのような、赤地に白丸なんてシンプルですが記憶に残りやすいデザインです。

何故このようなデザインなのか不明ですが、白い丸の部分は、灯籠の火窓の名残ではないですか。

そして赤いのは、連続した赤いトンネルが魂を冥界に迷うこと無く導くようにしたのではと勝手に推測します。

 

大内文化を山口に築いた人物

第14代大内政弘(1446年- 1495年)応仁の乱には西軍側の主力として参戦する実力派。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築いています。

第16代大内義隆(1507年-1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が誕生しました。

大内文化を支えるための経済基板は、貿易や銀山開発によって経済力は諸大名の中で突出していたのです。

 

憧れの京都

第24代大内弘世(1325年-1380年)は、室町幕府から周防・長門の守護職に任ぜられ、その勢力を確たるものとしていたのです。京に上って、幕府の政治にも関与していた弘世は、京に憧れを抱き、山口盆地が京によく似ていることから、都に模した街づくりをはじめたとされます。

1360年頃政庁を山口に移し、以後約200年間、歴代当主も「西の京」として街づくりに励みました。

 

弘世は、京都から姫を嫁に迎えましたが、姫が都を懐かしみ寂しがるので、その憂情を慰めるために京から人形師を呼び寄せ、屋敷中を人形で飾ったそうです。

そんなロマンチックな伝説が男女一対の珍しい漆塗り人形である、大内人形を生んだといわれています。

 

第26代大内盛見(1402年-1431年)は、大内弘世の6男として山口に生まれています。

朝鮮交易を盛んにし、大陸色豊かな大内文化興隆の素地を培っています。

筑前少弐氏との争いで戦死。菩提寺は洞春寺(もと国清寺)墓はその後山にあります。

防府天満宮には大内盛見がおさめたよろいが残っています。

 

「大内」と称しはじめたのは

平安時代、16代盛房(もりふさ)のころ、本拠としていた所が「大内」という地名だったことが由来とされています。(以前の名前は多々良でした

 

■おみやげ

山口外郎(やまぐちういろう)

外郎はもともと足利義満の時代に元より薬として入って来ました。その後、「外郎餅」として全国に広まり、山口には大内時代に伝わって来たと言われています。

 

■見どころ

一の坂川:京の鴨川に見たてられた川でゲンジボタルが見られます。

国宝 瑠璃光寺五重塔:25代義弘の菩提を弔うため、弟の26代盛見が建立。

 

■イベント(花見など)

山口祇園祭「鷺の舞神事」

24代弘世が京より勧請した祗園社(今の八坂神社)の室町時代より続く山口の代表的な祭礼。京都の祗園社では既に途絶え、現在では行なわれていません。

 

■編集後記

この祭りに使う提灯には、本物の火を付けたロウソクを使うために、提灯全てに人が一つ一つ手間をかけてやっているそうです。またロウソクの火が提灯に燃え移ることもあったりするそうです。それだけにこの行事には他の地域からも手伝いにきています。 これも大内文化の一部なのかなと思うと、大内氏は山口の人々に愛されているんだな〜と感じました。

 

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