マンホール物語

小郡市デザインマンホール 機関車

ぶらりマンホール、小郡市内での撮影
小郡市の蒸気機関車登場
私の友人、弥永君が撮影してくれたものです。
いまでは珍しい蒸気機関車!。
機関者の先頭に「おごおり」の
プレートが付いています。
文章が載っていますね、
「春風の鉢の子一つ 山頭火」
桜の花が咲いているので、季節は春?
あるいは、桜が有名なのか!。




山口県の蒸気機関車
新山口駅(元小郡駅)から津和野駅にを走っている
SLやまぐち号です。
近代化に伴い姿を消していましたが、当時の国鉄総裁の大英断で昭和58年に山口線に蒸気機関車が復活しました。
火を止めた蒸気機関車を再復活するのはとても大変なことなんです。
メンテナンスされた状態でいたこと、高い専門技術力と2億円もの資金が必要になってきます。
さらに運行するには、蒸気機関士の資格などです。
それだけこの蒸気機関車を走らさせる価値があるんですね!
山頭火ってだれや?
五・七・五を無視して、「自由律俳句」を詠み、酒を愛し西日本を僧侶として歩き回った人と云う自由人のイメージでした。
実際のところは苦悩の連続だったようですね。
生まれは(明治15年)山口県防府市で、裕福な家庭のようでしたが、父親が愛人を作り夢中になりすぎて、母親が井戸に身を投げた。
それを目の前でみていた彼はショックだったと思います。
その後の人生は悲惨な状況でした。
兄弟離散、妻子に逃げられる、借金地獄で弟が自殺、本人も自殺未遂でした。
まぁそんな事もあって、出家したようですね。(大正14年) (43才) 50才になるまで行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)をつつけていたそうですね。
いつ頃からお酒を飲むようになったのか分かりませんが、 山頭火というお酒があるぐらいですからね。
57才で亡くなるまでに、様々な俳句、詩を残し文学に貢献されたようです。
学校では主席だったりで頭の良い人だったんですね。
小郡と山頭火のつながり
デザインマンホールに書かれた文は、山頭火の句です。
小郡市と深い関係の有る人でした。
「春風の鉢の子一つ」
「鉢の子は」托鉢の僧が喜捨を受けるためのお椀の形をしたいれもののこと。
厳しい冬を体験して、太陽の光で衣が暖かくなって幸せを感じているイメージでしょうか?。
山頭火が小郡に庵を結んだのは、昭和7年9月から昭和 13年11月までの6年間で、山頭火51歳から57歳 までの晩年の時期です。
この庵からあちこちへ行乞に出ている。
昭和11年3月 門司から船で神戸で降り、平泉に至って7月に戻って来 る大旅行を決行した。
おそらく死に場所を探す旅だった のではないでしょうか。